<晩餐>
早朝に始まった軍議、昼からの出陣式と、戦争に赴く前日の時間は矢のように流れて行く。
出陣式の解散後、シンディが中庭で話をするシフたちに声をかけた。
「三人とも、今日の夜は私と共に過ごして欲しい」
「シンディ様・・・しかし」
「気持ちは嬉しいけどよ、少しは休んだ方がいいんじゃないか」
シフたちとて、彼女の体調はとても気掛かりだ。
「ではこうしよう。今宵私と食事をすることは、神官命令だ」
「何だよそれ!」
シフが噴き出す。
「あはは。シンディ殿のお言葉に甘えるとしよう。何しろ、神官のご命令だ」
「へいへい。有り難くお受けしますぜ」
二年という時間を経て聖騎士の後継者となり、すっかり身長も増して大人びたシフだが、こうして話していると
中身は全く変わらない。シンディには、それが嬉しかった。
「私が食事を用意する。重苦しい鎧も、今夜だけは外して来ると良い。月が出るまでは自由に行動していて構わないぞ」
「なら、俺は街に出てみるかな。住民たちの混乱はだいぶ収まったみたいだが、不安なのは変わらねぇだろうし。
様子を見てきてやるよ」
「では、場所を変えて皆で見回りをしましょうか。私はエントルスの入国門あたりに行ってみます」
「自分は、街外れを馬で回ってみよう」
何かをしていないと落ち着かないのは、全員一緒だった。
「じゃ、夕方にはまた神殿に集まるか」
話もまとまり、それぞれが神殿を出て行く。
☆
激戦区になると予想されるマイヤとヴァレンの女性や子ども、年配者は三日以内に避難を完了する段取りになっている。
避難先はラウォから一番遠い、ここエントルスの国内だ。元より、ゆとりのある国土に対し住民の数が多くなかった
ことが幸いした。入国門から可能な限り離れた奥地に、膨大な数の避難用のテントの設置と、配給食糧の運び込みが
進められている。肝心の人々も、三国同盟軍の兵士に護衛されながら続々とエントルスに移動している最中だ。
シフは街中を歩いていた。王たちの指示がしっかりと行き渡っているようで、先日の夜のような混乱は見受けられなかった。
すれ違う人々はシフの耳を見て表情を曇らせるが、彼が総隊長になったということも既に知れ渡っているようで、黙って
避けられるだけである。
基本的に、エントルスの住民たちは静かに家で待機をしているようだ。かつてシフが不良たちに絡まれた路地裏も、
今は静かなものである。
「特に、問題もなさそうだな」
一通り歩き終えると、街の中央部に造られた緑豊かな公園へ足を踏み入れ、ベンチで一呼吸を置く。普段より人は
少ないが、子どもたちがいつものように遊んでいる。それは、どこかほっとする光景でもあった。
目の前には、公園の人々を見守るように建てられた大きな女神像。シンディたちエントルス国民を始め、大陸の
人間の多くが信仰するセントリア・ルシェ教の女神である。
「・・・・・・」
シフ自身は特に宗教の信仰はしていなかったが、その慈愛に溢れた女神の顔を見ていると、不思議と落ち着くものがあった。
(神様、か。もし本当に存在するんなら、皆を守ってくれ。これから失われる命が、出来るだけ少なくて済むように)
静かに佇む女神像は、返事をしてはくれないが。
「・・・どうして、こんな時にっ!」
「仕方がない。辛いのは僕たちだけじゃない」
いきなり、後方から涙交じりの女性の声と、それを宥める男性の声が響いて来た。シフの座るベンチの後ろには
植え込みがあるので、お互いにその姿は見えない。何となくシフはその場を離れようと思ったが、立ち上がると
身に着けた鎧が音を立ててしまう。仕方なく、静かにやり過ごすことにした。
「もうすぐ結婚式を控えているというのに、こんな事になってしまったのは僕だって残念だ。でも、行くしかないんだ。
この時のために、ずっと訓練をしてきたのだから」
男性の言葉で、シフも状況を理解した。彼は軍に所属する兵士であり、明日には出陣する身なのだと。
「うぅ・・・っ」
送り出す立場の女性はすすり泣いている。
シフも、その声に胸を締め付けられるような気がした。大切な人を置いて行かねばならない辛さ。逆に、
帰って来ないかもしれないという不安を胸に見送らねばならない辛さ。痛いほどに伝わってくる。
「今、君にこんな事を言うのは酷かもしれない。しかし・・・もし僕が帰って来なかったら、君はちゃんと
幸せになるんだよ。他の男と結婚してもいい。君が幸せでありさえすれば、僕はそれが一番嬉しいから」
「・・・っ・・・馬鹿なことを言わないで! あなたの傍に居ることが、私の幸せなの・・・だから、
信じて待っている・・・あなたが無事に帰って来るのをっ・・・」
「・・・そうだね、僕は君を守るために戦争に行くんだ。君のために、きっと帰って来る」
儚い約束を口にして、男性は恋人の肩を抱いた。約束とはいえ、守られる可能性はあまりにも低い。
しかし、残される人間はその言葉だけをひたすら信じ、待つしかないのである。
やがて彼らは寄り添って公園を後にした。シフは、しばらく動けなかった。かつてはメルビアと自分も、あのように
見送り、見送られる立場だったことを思い出す。
「・・・俺は」
また、女神像を見上げる。
「あんな思いをする人たちが居なくなるように、これから戦争に行くんだ」
静かに、その優しい姿に誓った。
☆
早くも他国の住民たちや物資が到着し始め、エントルスの入国門はその受け入れで賑わっていた。きちんと誘導や
指示をしている兵士たちのお陰で、問題は起きていないようだ。次々に人々が入って来る中、たった一人、
中年の女性が流れに逆らうように門を出て行こうとする姿を目ざとく見つけたグラディウス。思わず走り寄って
声をかけていた。
「あの、今からどちらへ?」
肩を掴まれた女性は面食らったように振り返った。その手には、小さな花束が握られている。
「ええ、外に・・・用事があって。すぐに戻りますから」
「今、お一人で国の外を出歩くのは危険です。良かったら、私が同行しますよ」
「そんな、申し訳ない・・・」
「構いません。御迷惑でなければ、用心棒とでも思ってお連れ下さい」
優しく微笑む青年に、女性もやっと安心して頭を下げた。
エントルスの入国門を出て、砂漠へ。広大な砂の海をしばらく歩いた所で、彼女は花束を静かに置き、手を合わせた。
「・・・・・・」
グラディウスは、黙ってその姿を見守る。
「この辺りだったらしいの。夫が亡くなったのは」
「え?」
グラディウスを振り返ることなく、女性は静かに言う。
「あまりにも多くの人が亡くなったから、埋葬が間に合わなかったのよ」
女性は、前回の戦争で兵士だった夫を亡くしたことを語ってくれた。四年間に渡る戦いは激しく、当時は死者を
丁重に葬っている時間など皆無だった。砂漠で命を落とした数多の兵士たちが、家族の元へ帰ることも、
見付けてもらうことさえも叶わずに砂の上で朽ちていったのである。
「産まれたばかりの子どもと一緒に待っていたのだけど、あの人はとうとう帰って来なかった。終戦してからも、
何度も砂漠に来たわ。夫の骨でも遺品でも・・・何か一つでも見付けることが出来ればと探したのだけれど。
あれからもう十八年・・・私だけがすっかり年を取ってしまったわね」
記憶の中の夫は、今も若く凛々しいまま。
「みんな、戦前とか戦後とかいう言葉で、簡単に時代を括るでしょう? でも、私のように・・・大切な人を
失った人間の時間は、あの時から止まったままなのよ」
切々と語る女性の声は、優しくもあり、痛々しくもあった。
グラディウスの長い金髪が、砂の混じる風になびく。
「私も、明日から戦争に赴きます。私だけじゃない、多くの人々が・・・」
そこで、彼女はやっと振り返った。グラディウスの年の頃から考えて、戦争に出るのだろうという察しはついていた。
「戦えない私は、祈る事しか出来ないけれど・・・こうして、見ず知らずの人間に声をかけてくれる優しいあなたの
無事も、祈っているわ。必ず生きて帰ってきて、また顔を見せてちょうだいね」
「有難う・・・ございます・・・」
グラディウスは自分の母親の顔を知らないが、このように優しい人であったなら嬉しいと、素直にそう思っていた。
「そろそろ戻りましょうね。どうしても、戦争が始まる前に夫へ伝えたかったの。大きくなった娘のことを、どうか
守ってあげて、と・・・」
エントルスへ帰ってゆく二人の後ろ姿を、ぽつんと置かれた砂の上の花束だけが見送っていた。
☆
カッツは街外れ一帯の見回りを終え、今は護身用の短剣を砥いでもらうために武器商人の店に来ていた。
明日からのために持ち込まれた武器も多く、砥ぎ上がるまでは時間が掛かりそうである。仕方なく、客の多い
店を出て外の空気を吸っていると、横から声をかけられた。
「あなたも、砥ぎ待ちですか?」
見ると、自分と年齢も近そうな男性が立っていた。
「その通りです。さすがに今日は、待ち時間が長いですな」
カッツが、にかっと笑って返事をする。
「僕も、もう随分と待っています。失礼ですが、あなたも明日から・・・?」
「ええ。自分は、ヴァレン側の守備に参加する予定です」
「そうですか・・・僕はマイヤ方面です」
共に、明日は戦いに出る身。
「何だか、こうして準備をしていても実感がないんですよね。あまりにも突然過ぎて」
「戦いとは、案外そういうものなんでしょうな」
カッツが遠くを見たまま呟いた言葉に、相手も頷いた。
降り注ぐ陽射しと柔らかな風は、まるでこれから始まる戦争など夢ではないかと思わせるほど穏やかである。
二人は、静かに空を見上げていた。
「僕は、前回の戦争で父親を失ったんです」
「え・・・」
「当時僕はまだ子どもで、戦争に赴く父を見送り、その時が最後になりました」
カッツと、よく似た境遇であった。
「そして今度は、僕が行く番になりました。僕にはまだ小さな息子が居るんですが、あの時の父の気持ちが、
今になって痛いほど分かるような気がします」
カッツの脳裏にも、戦争に送り出した時の父の背中がありありと思い出されていた。
「残されて、その死を知らされる辛さを知っているからこそ・・・息子にまでそんな経験をさせたくない。
成長を近くで見続けるために生きて戻りたいと思う一方、家族が無事であるためなら、自分の命などどうなっても
構わないという気持ちも存在しているんです。はは、何だかおかしいですよね?」
「・・・・・・」
カッツは、肯定も否定も出来なかった。生きて戻ろうとも、死を厭わず志を成し遂げようとも、どちらも簡単に
言えるような言葉ではない。
ただ、あまりにも戦争というのは残酷だというやるせない思いが、強く心を占めていた。
「見ず知らずの方に愚痴をこぼすなんて、お恥ずかしいです」
「いえ・・・自分も、同じような気持ちですよ」
「明日から、頑張りましょうね」
男性が、笑った。
その時、店主が出て来て彼の武器の仕上がりを知らせてくれた。砥ぎ上がった太い槍を受け取って帰路につく
その姿を、カッツは静かに見送る。
男性が最後に笑った顔が、強く印象に残っていた。
カッツの父もまた、同じように笑って出て行った。当時は、それを純粋な父の強さだと思っていた。しかし・・・。
(守りたい者のために命を賭けられる思いも本物だ。しかし、大事な存在があるからこそ、生への執着を
捨てられない思いもまた、本物だ。父も、本当は恐怖と闘っていたのだろうか。その葛藤を隠し、自分に笑いかけて
いたのだろうか・・・)
そうであれば、父は世間が言うような無双の英雄などではなく、強さと共に恐怖を抱えて悩んだ、一人の人間だったのだ。
「・・・・・・」
カッツは、自分の握った拳を見つめる。
(自分も、やはり怖い)
忘れることなど出来ない、無残な父の遺体。明日には自分が同じように、冷たい肉の塊になっているかもしれない。
(それでも・・・)
故郷で待つ祖父母、妹、そして仲間たちの顔を思えば、不思議と身体の震えが治まってゆく。
死の恐怖すら凌駕するもの。それこそがやはり、守りたいという気持ちであった。
「・・・自分も少しは、あなたに近付けたでしょうか」
そっと、空に向けて語りかけてみる。
☆
夕暮れが近付き、街がオレンジ色に染まった頃。それぞれ用事を済ませて神殿へ戻った三人は、もうしばらく
シンディの自室で待つようにと案内された。
「何だか、三人でゆっくりすんのも久々だな」
軽装に着替え、以前と同じようにソファに行儀悪く寝転がったシフが呟く。
「そうですね。二年ぶりの再会から秘宝の引き継ぎ、そのまま戦争の前夜を迎えることになるなんて、思っても
みませんでしたよ」
苦笑して返事をしたグラディウスが、竪琴で曲を奏で始める。日が昇れば終わってしまう、静かな時間を惜しむような旋律。
シフとカッツは、しばらく聴き入っていた。
「昔からそうだ・・・。戦いに出る前夜って、妙に興奮して、色々と考えちまう。きっと、あれだな。死が鮮明に
近付く気がするからだろうな」
「シフ殿?」
急に意外なことを言い出したシフを、二人は見つめる。
「俺さ・・・戦いの前夜は、必ず見張りの目を盗んでメルビアの居る地下牢へ行ってた。そんで、アイツの顔を、
黙って見つめて・・・不思議と、それで気持ちが落ち着いてたんだ」
まだ懐かしい、と思い出の言葉にするには早すぎるメルビアの顔、そして声。
「自分の父も、そうだったよ。戦争に行く日の前の夜、家族みんなを集めて食事をとった。何とも言えない淋しさと、
あたたかさがあったことを覚えている。誰もが、最後になるかもしれない夜には、大事な人の傍に居たいものだ」
カッツも静かに語る。
「今も、明日から出陣する方の殆どが、家族や恋人と過ごしていらっしゃるのでしょう」
グラディウスは、窓の外に視線を向けた。
「そして、心静かに・・・大事な人の姿を目に焼き付け、生きて帰ろうと誓うのです」
「ああ。俺たちも、な」
シフの言葉に頷くと、再び竪琴を鳴らす。
使用人が三人を呼びに来るまで、グラディウスの紡ぐ音色は小さな部屋を優しく満たしていた。
☆
「おおっ! すっげぇな」
中庭に出るなり、シフは大声を上げた。月光が照らす噴水の横に、純白のテーブルクロスがひかれた机。
その上には沢山の料理が並んでいた。
「これ、全てお一人で?」
「ああ。今日だけは、誰にも手伝わせたくなかったからな」
シンディが微笑む。
「アンタも、女らしい事が出来たんだな」
「・・・シフ、そなたはもう部屋で休むと良い」
「うそうそ! ちょっとした冗談だって!」
素早くシフが椅子に座る。
シンディの料理は華美なものではなく、どちらかといえば素朴な、家庭料理を思わせるものが殆どであった。
色鮮やかなサラダと焼き立てのパン、香ばしい香りのスープが並び、中央の大皿には肉と野菜。
そして、可愛らしく盛られた果物まであった。そんな食卓を空高くから月が照らしている。
リオール大陸から見る月は金の色味が強く、白いテーブルクロスは月光を受けて淡い黄金に染まっていた。
「何とも、幻想的な光景ですね」
しみじみと言うグラディウスの隣では、さっそくシフが料理に手を付けている。
「美味い! これがオフクロの味ってやつかな?」
「そなたのような出来の悪い子どもを産んだ覚えはないが・・・まあ、褒め言葉として受け取っておこう」
物心つく頃には両親を亡くして騎士養成所に入ったシフは、家庭料理というものに縁のない人生だった。
「うむ、本当に絶品だ! シンディ殿にはこんな特技もあったのだなぁ」
カッツも、豪快に料理をかきこんでいる。
「母が、料理を好きな人だったのだ。姉と共によく手伝いをしていたから、自然と覚えていたようだ」
「そういやシンディのお袋さんと姉さん・・・ちゃんと連絡は取れてんのか?」
「ああ。明日からは、避難場所で物資や食糧を配る手伝いをしてくれるらしい」
シンディの家族は政治には関わらないが、何かがあれば率先して出向き、力を貸すような人たちであった。
だからこそ、国民からもシンディ同様に愛されている。
「それに明日の夜までには、マイヤとヴァレンの全ての住民が、無事にエントルスに入国出来るようだ」
「良かった、シンディ様たちの素早い段取りのお陰ですね」
「俺たちも、集中して戦えるな」
四人は、そこからは戦争の話をあえてしなかった。
明日から嫌でも迎える現実をひととき心から引き離し、思いつく限りの楽しい話で、決戦前の晩餐をめいっぱい楽しんだ。
「・・・ありがとな、シンディ。本当に美味かった」
料理はすっかりなくなってしまった。明日に備え、そんなに遅くまでは起きていられない。名残惜しい気持ちを抑え、
全員が席を立つ。
「シンディ様も、今日は睡眠をとって下さいね」
「そうだ。明日からは、寝ることも自由に出来ないだろう。ただでさえ、シンディ殿は激務が続いていたからな」
「気遣い、感謝する。今日は素直に寝ようと思う。私が倒れては、笑い話にもならんからな」
冗談めかして言う言葉は、しかしどこか淋しげに響く。
「・・・本音を言うと、私にも怖れがある。だから、それを忘れたくて必死に料理を作ったのだ。このような立場で
弱音を吐くなど、褒められることではないが・・・」
いつも凛とし、前へ突き進むシンディ。しかしその身には、多くの国民の命を背負っている。戦争という現実は、
若い彼女に計り知れない恐怖と緊張をもたらしていた。
「それでいい。当然のことだ、シンディ殿」
カッツが、彼女の細い肩に触れる。
「シンディ、俺も怖い。でも、それを認めてこそ本当に強くなれるんだってカムラッドから教わったんだ」
「全員、気持ちは一緒ですよ。同じ人間なのですから」
「・・・・・・」
三人の優しい言葉に、シンディは涙を浮かべた。
「有難う・・・。そなたたちと出会い、共に戦える事に心から感謝する。今宵の、あたたかい黄金の晩餐を・・・
私はずっと忘れない」
「ああ、俺もだ」
「また、こうして全員で揃って食事をしましょうね」
「はは、そのために、ちゃっちゃと戦いを終わらせねばな」
自然と、四つの手が重なり合う。
「シフ・・・いや、総隊長よ。そしてグラディウスにカッツ、明日からもよろしく頼む」
最後にそう言ったシンディは、いつも通りの凛とした美しい笑顔であった。