<高山地帯と森>
翌朝、まだ朝日も顔を出さぬうちから二人は村を出ていた。
「ここから、ひたすら北に向かって登るだけだな」
シフがコンパスを弄りながら言う。
大陸最北端の、未開の山岳地帯。シフもラウォに居た時は、この山岳の存在すら知らなかった。
どの国家にも属していないせいで、あのファニー村ですら、簡素な地図にはその名を記されていない。
ましてこれから向かう山岳地帯の奥に至っては、足を踏み入れる者すら稀である。
「どれだけ広いか見当もつきませんね。念のため、水は節約しながら歩きましょう」
「ああ、この様子じゃ補給も望めなさそうだ」
二人は割と軽装である。
『日頃から、いいものを食ってる軍人ほど疲弊が早いからな。歴史上のどこを見ても、争いで勝ったのは
質素な食事に慣らされた軍隊なんだ。今後もあちこち移動する機会も多いし、普段からなるべく少ない量で
やりくりするのに慣れておかねぇとな』
前夜、そう言いながら気候なども考慮しつつ必要最低限の荷物の振り分けを判断していたシフは、さすが数々の
野戦を指揮してきただけのことはある。
幸い、ここ数日は晴れの日が続いている。早朝の空気は澄んでいて、少々肌寒いくらいだ。
足場は安定しておらず、しばらくなだらかな登り道が続いたかと思いきや、急に坂の傾斜がきつくなったり、
岩が転がっていたりと、さすがは人の行き来がない場所と言える。
時には手を使ってよじ登らなければならないような崖もあった。しかし見渡す限り何もなく、ただ風だけが
大きな音を立てて吹きすさんでいる。コンパスがなければ、方向さえ見失いそうだ。
「こうしてると、何つーか・・・静かすぎて不気味だし、行くだけ無駄な気がするな」
「それは、奥地に行くまで分かりませんよ。何もなければ戻るだけですし。それに、リィスさんのお兄さんに
比べると、私達は二人居るだけでも良いですよ」
「確かにな・・・。ここで一人で迷ったらって考えると、ぞっとするぜ」
風が巻き上げる砂埃に目を細めながら、シフとグラディウスはそれから五時間ほど休憩も取らずに黙々と
歩き続けた。体力は相当なものである。
「あ・・・」
グラディウスが小さく声を上げたのは、ちょうど太陽が真上に来た頃だった。
「ん、どうした?」
「ほらシフさん、前方に小屋のようなものが見えませんか?」
確かに彼が指差す方向に、ぼんやりと小さな建物が見える。
「っつーか、こんな食糧調達も出来そうにない所に、人が住んでるのか・・・?」
「誰かが一時的に作ったもので、今は空き家かもしれませんね」
「それだったら、ちょうどいいや。あそこ借りて昼メシにしようぜ」
しかし二人が近付くと、奇妙なことにその古ぼけた小屋の中からは物音と、香ばしい料理の香りが漏れていた。
「・・・山賊の類かも分からねぇ」
そっと呟き、シフは腰に差した剣の柄に手を掛け、入口を叩いた。
「はいよ」
すぐに中から返事があった。二人に緊張が走る。
しかし出て来たのは、人の良さそうな皺だらけの老人であった。
「おお、おお。こんな所にお客さんかい。良かったらお入り」
「ジーさん、ここに住んでんのか?」
「いや、普段はマイヤにおるよ。このオンボロ小屋は・・・ワシのアトリエじゃな」
促されて入った狭い木造の小屋の中には、机と椅子、そして床や棚には乱雑に置かれた多数の木彫りの置物があった。
精巧に彫られた動物や人、ざっくりと形だけを作ったような抽象的なモニュメント。二人に出してくれた不揃いの
大きさの椅子も、恐らく彼が造ったものであろう。どれも手作りの温かみがあった。
「すげぇ・・・」
シフは思わず感嘆の声を上げた。
「何かを彫る時には、こういう静寂の場所に身を置きたくなるのでな。しかし人が訪ねてきたのは初めてだよ。
お若いの、まさかタヌキではないだろうな?」
逆にシフたちの方が正体を疑われている様子だ。
「正真正銘の人間だよ。ファニー村から歩いて来てんだ。まぁ旅ついでの探索みたいなもんだけど」
「ふむ」
老人は目を細くした。
「この山岳の、更に奥地まで行った者はそうそうおらんじゃろ」
「お爺さんも、ですか?」
「ああ。興味本位で試みたことはあるがな、ここから更に北に歩くと、高山地帯にも関わらず森がある。
そこで完全に方向を失ってな。何とか戻れたものの、恐ろしくて二度と行きたくはないな」
「なるほど・・・」
「しかし冒険心というのは良いもんだ。ワシももう少し若ければ、お前さん達について行きたいよ。
どうか頑張っておくれ」
そして老人はゆっくりと立ち上がると、窓の外を眺めた。
「ワシもこんな年だ。そろそろこの山に来るのも潮時だ」
「ジーさん・・・」
「もちろんここまで歩くのにも骨が折れる。しかし、それだけじゃない。目も弱ってきた上に、感性が
失われてきたせいでな、もう彫るのもおしまいじゃ」
大きな造形物だと、それなりに力も使うからな、と言って笑った老人の顔が、二人にはどこか切なく映った。
「さ、ちょうど山菜のスープを作っていたところだ。良かったら飲んでいかないか? 体も温まるぞ」
「おっ、有難ぇや! 腹減ってたんだよな」
「いただきます」
その老人の人柄を思わせるような、優しい味のスープを平らげて小屋を後にする。
「どうも御馳走さん。ジーさんも、気を付けてな」
「ああ、有難うよ。ここで人と話せて、楽しかったよ」
「それでは、失礼します」
眼前には、また果てしない山道がある。シフとグラディウスは歩き出した。老人は、その若い二人の背中を
見えなくなるまで見送っていた。
☆
更に小一時間ほど歩いた頃。老人の言っていた森は突然その姿を現した。
「不思議ですね・・・植物すらあまり自生していない山岳の奥に、こんな森があるなんて」
グラディウスがそう言うのも無理はない。うっそうとした森は、周りの環境に対してあまりにも不自然過ぎる。
「だけど、回り道もなさそうだしな・・・ん?」
腐りかけた、小さな立て看板を発見する。
「こんなんがあるってことは・・・」
「ええ。あのお爺さん以外にも、過去にこの森に入った人がいるのでしょう」
「中で白骨だけは見たくねぇな」
「ふふ、確かに」
少々不気味な想像をしながら、近付いてみる。
「見たこともない文字ですね。何と書いてあるのでしょうか」
「これは相当昔の・・・旧大陸時代の古代文字だな」
現在は五国ともほぼ共通の文字・言語を使用しているが、数百年以上前の旧大陸時代と呼ばれる頃は、
古代文字が使われていた。しかし古代文字というのはあくまで総称であり、それぞれの国によって全く内容は異なる。
「えーと・・・【贖(あがな)いの森】だとさ」
「まさかシフさん、読めるのですか?」
「これでも軍の養成所で、古代文字も教えられたからな」
「・・・人は見かけによらないものですねぇ」
「余計なお世話だっつーの」
普通に考えれば軍人の日常生活に必要ない古代文字をシフが教わっていたのにも、ラウォの軍事的背景がある。
先の大陸戦争で残虐な侵略行為を行ったラウォは、他国の保有する貴重な歴史的文献や政治の記録、伝承本に
至るまでを奪い去った。それらは膨大な数に及ぶが、多くは各国の古代文字で書かれていた。
文武共に優れた国王バルは好んで読んだが、いかんせん数が多い。そこで、特に重用した兵士に限り、
古代文字の教育を施して解読を手伝わせていたのである。
「贖いの森・・・どういう意味でしょうか」
「さあな。誰が付けんだか知らねぇが、奥に進む道はここしかないんだし、行くだけだ」
手の中のコンパスは、森に向かって真っすぐ北を指している。度胸だけは人一倍のシフは、躊躇することなく
森へ足を踏み入れた。
それからしばらく歩いてみたが、このような一帯にあるという点を除けば、特におかしな所はない。
動物などの気配はなく、ただ手付かずに育っている木が重なり合っている感じだ。
見上げるほどに生い茂った葉の間から僅かに射す光が弱くなってきたことから、夕方近くになっているようだ。
「別に何もなさそうだな」
「あとどれくらいで出られるのかは気になりますが・・・」
もう暫くすれば、足元も見えなくなる。野宿の場所も決めねばならない。
「・・・おい」
ふいに、シフが横を歩くグラディウスの裾を引っ張った。
彼の手から差し出されるコンパスを見て、グラディウスは一瞬言葉を失う。
ついさっきまでは確かに位置を示していた針が、ぐるぐると回り続けている。
「俺ら・・・ちゃんと北に向かって、真っすぐ歩いて来てたよな?」
「迂闊でしたね。シフさん、後ろを見て下さい」
振り返ったシフの背後は大きな木に挟まれていて、つい今歩いて来た道だというのに通った覚えがない。
「どうやら、私達はこの森に歓迎されていないようですね」
グラディウスの青い瞳が、心なしか鋭くなる。
「そんな・・・」
突如、二人の前方の茂みがガサッと音を立て、人影が飛び出してきた。
「誰だッ!」
咄嗟に剣を抜いて構えるシフ。反射速度は相当なものだ。
剣の刃に、その人物の顔が映り込んだ。
「っと・・・ガキじゃねぇか。何でこんな所に!?」
グラディウスが落ち着いて手提げランプに火を灯す。
なるほど、立っているのは十二、三歳くらいの少年だった。
線の細い、頼りなげな外見で特に目を奪われるのは、まるで色素のない、水晶のような瞳である。
その無色の瞳は二人をじっと見つめているのだが、背筋が凍るほど不気味な気がした。
「あなた、お名前は?」
「・・・ルゥ」
シフとグラディウスは一旦顔を見合わせると、少年に向かい直る。
「おまえ、こんな森の中で何をしてる?」
「僕の家は、あっちに抜けた所にあるんだ」
すっと細い指が差したのは、二人が北だと思いながら歩いている方角である。
ルゥと名乗った少年の表情は、鉄のように硬い。簡素な服装で、しかも手ぶらである。
(なぁ・・・こいつの話、信じられるか)
(何とも言えませんが・・・)
二人がひそひそと話す様を、ルゥは身じろぎ一つせず見ている。
「あの、ルゥさんでしたね。私達はこの森を抜けたいのです。あちらに向かえば出られるのでしょうか?」
「うん、僕に付いてきなよ」
ルゥはさっさと歩き始めた。仕方なく二人も続く。
正体不明の子ども。
罠か、それとも本当に森を抜けた所に人々が暮らしているのか、全く見当がつかない。
いよいよ完全に暗くなり、ともすればルゥの小さな背中を見失いそうだ。子どもとは思えない速さで
進む彼を、必死で追う。
シフの手は、剣の柄に添えられたまま。グラディウスも注意深く周囲に集中している。
三人は一言も口をきかず、聞こえるのはザッザッという足音だけ、のはずだが。
(シフさん、あの子の足音は・・・)
グラディウスがそっと耳打ちする。もちろんシフもそれには気付いていた。
(ああ、油断するな)
自分たちの足音は落ち葉などのせいで響くのだが、ルゥの足音は全くと言って良いほど聞こえてこない。
まるで氷の上を滑っているかのような、奇妙な感覚である。
二人とも、この少年が普通ではないことは十分に判っている。
だが今、道を失ったこの森を抜ける為には何らかの手掛かりが必要なのだ。