<死の影と追憶>

 

「今日はここで休もう。もう少し距離があるから」

しばらく歩いた頃、突如ルゥがぼそっと言った。

「あぁ・・・そうだな」

シフは促されるままに野宿の準備をする。いつでもどこでもリーダーシップを発揮する彼だが、今日に限っては

この冷たい空気がまとい付く謎の少年のペースにつられていた。

グラディウスも、黙ったまま火を起こして夕食を取り分ける。

 

「なぁ、ルゥは何でこんな森の中にいたんだ?」

「・・・・・・」

「家族は? みんな家に居るのか?」

「・・・・・・」

とにかく、必要以上に口を開こうとしない。表情も、見るものがないといった感じのまま。

物事は躊躇せず言葉にするタイプのシフは、少し苛立つ。

話し掛けても返事をしないというのなら、こちらも何も言うまいと決め込んだのか、無言で水を飲む。

妙なところで子どもっぽいシフに、グラディウスはそっと笑った。

 

「明日の間には、ここを出られそうですか?」

訊かれたルゥは、返事の代わりに首を縦に振った。

二人は、こんなに異様な空気の中でとる食事は初めてである。その原因であるルゥは、地面に視線を落したまま

黙々と口を動かしている。

しかし、噛んでいる音は全くしない。食べているのは非常食用に硬く作られた乾パンなのに、だ。

長めの前髪は透明の瞳を隠してしまいそうで、その細い体は物音を立てない。

得体の知れない何かと一緒にいるという不気味さは、想像以上だった。

 

食事を終え、ルゥを真ん中に三人が地面に横になった時。

「シフ・・・」

いきなり声をかけられた。シフはごろっと寝返り、ルゥを見た。ランプも消してしまったので真っ暗だが、

水晶のような瞳が自分を見ているのは分かった。

「何だ? 眠れねぇのか」

「・・・・・・」

はだけた毛布を掛け直してやる。

「シフは・・・自分のこと、好き?」

そのか細い声で言われた言葉に、シフは一瞬心が弾かれたような気分になった。

「どうして、そんなこと」

「自分のこと、好き?」

暗さに慣れた目で向かい合う、ルゥの顔と視線から逃れることが出来ない。こんな気持ちにさせるのは、一体何なのか。

「ねえ、答えて。自分のこと、好き?」

「あぁ、えっと・・・そうだな。好きとは言い切れねぇけど、必要以上に嫌わないようにはしてるかな」

「なぜ?」

「だから・・・自分を否定しても、良いことがないからな」

「・・・・・・」

「悲しいだろ? 自分で自分を嫌ったら。そりゃ好きになれるとこなんか少ねぇけど」

訥々と語るシフに、ルゥの睫毛がそっと伏せられる。

「僕は、自分が嫌いだよ」

「え・・・」

「僕は、死ぬべきなんだ」

「・・・・・・」

今度は、シフが黙る番だった。

 

彼にはこの時、ルゥの姿が過去の自分と重なって見えていた。

メルビアの命を盾にとられ、やむなく争いで人を殺していた頃の自分と。

決定的に同じものがある。

 

・・・死の影。

はっきり確信できた。始めから気になっていた、ルゥのまとう冷たい空気は、死の影そのものだったのだ。

今はどんな言葉も与えてはいけないような気がして、シフはルゥの細い肩に触れる。

「・・・もう寝ろ」

一方、グラディウスは背中の方での会話を静かに、ただ静かに聞いていた。

 

贖いの森で初めて迎える夜は、長かったような気もするし、短かったような気もする。

シフとグラディウスは一睡も出来なかった。

 

               

 

翌朝、早くからルゥは行動を開始した。

ずっと起きていたのか、それとも眠っていたのかも分らないのだが。

視線だけで二人に用意をせかし、昨日と同じように先頭を歩く。

本当に森を出る方向に向かっているのかは不明。コンパスの針も相変わらず一点を差さないままだ。

だが、シフは時折木にナイフで傷を残してきている。それに再会しないところを見ると、少なくとも

同じ場所をループしているわけではなさそうだ。

ルゥも二人も無言。昨夜のシフとの会話は、まるで覚えていないかのように見える。

だが、しばらくして休憩を取っている時にルゥの口は開かれた。

「シフは自分のこと嫌いじゃないんだね、羨ましいな」

「・・・・・・」

シフは取り合わなかった。他にどうしようもないだろう。グラディウスとて同じである。

ルゥのまとう死の影はあまりにも暗く深く・・・中途半端な慰めや励ましは、全くもって適切ではないような気がする。

どう言葉をかけて良いやら分からず、時間だけが過ぎてゆく。今はただ、早くこの森を出たい。言葉にこそ出さないが、

シフもグラディウスも同じ気持ちであった。

 

ルゥはというと、じっとシフの腰にある剣を見つめていた。

「・・・僕がこの森に来たのはね」

真っ白な顔で、ゆっくりと口が動く。

「死に場所を探してたんだ」

「なっ・・・」

シフの表情が強張る。グラディウスは静かにルゥを見る。

「シフのそれ・・・その剣で僕を斬ってくれると嬉しいんだけど」

笑いもせず、だからといって悲壮な口調でもなく発せられたその言葉が、シフの逆鱗に触れた。

がばっと立ち上がると、ルゥの小さな胸倉を掴み上げる。

「ばっかやろう! 死にたきゃテメーで勝手に死ね!」

その形相はあまりに恐ろしく、ルゥはほんの少し表情を歪めた。グラディウスも、こんなシフを見たのは

初めてである。

「シフさん・・・」

「いいか、どんな事情があるのかは知らねぇが、お前みたいなガキが、いっぱしに死ぬだの何だの

言うもんじゃねぇんだよッ!!」

シフの黄金の瞳が、ルゥの透明の瞳に揺らいで映っている。

半分はルゥに、あとの半分は、血生臭い過去の自分に対して言っていた。

あの頃、口にこそしなかったが・・・密かに死を追っていた自分をはっきり覚えている。

だからこそ、尚更許せなかった。

激怒しているシフの方が、涙を我慢していた。

 

「死んでも、良いことなんか一つもねぇ。冷たい肉の塊になるだけで、苦しみから解放されることなんかないんだよッ!」

身を切るような冷たい風が、シフの頬をかすめる。

「・・・シフなんか嫌いだ」

ルゥは恨みがましい顔でシフの手を振りほどくと、音もなく茂みに走って行った。

「いけませんよシフさん、喧嘩腰に怒鳴ったりしては・・・。

あの子は余計に心を閉ざしてしまいます」

「ああ・・・悪ィ」

シフは、ぐったりと地面に腰を下ろして俯いた。

忘れたかった過去の自分。

ルゥに浴びせた言葉は本音である。死んでも、何からも解放されない。

だが昔の自分はそれを望んでいた。

そしてメルビアもまた、自分のために自害しているという現実。言いようのない感情がどっと押し寄せていた。

 

「まぁ、私にもああいう気持ちを持った過去がないとも言えませんからね」

「え・・・」

グラディウスの意外な言葉であった。

「今はあの子を探しましょう。何だか気掛かりです」

グラディウスはルゥの消えて行った方角へ走って行く。

シフは茫然とそれを見送る形になった。

「ちっ、何なんだホント・・・」

ひどく喉の渇きを覚えてカップに水を注いだ、その時。

「うっ!」

「グラディウス!?」

ほんの一瞬だったが、しかし間違いなく、呻くような声がシフの尖った耳に届いた。

立ち上がった瞬間、膝に乗せていたカップが落ちた、が、それが地面に着くか着かないかの時は既に、俊足のシフは

茂みに消えていた。

 

「どうしたんだグラディウ・・・ス」

木の生い茂った場所から飛び出したシフが見たものは、目を覆いたくなるような光景だった。

グラディウスが倒れている。その身体から流れ出る、血。

ルゥは横に立ち、それを見下ろしていた。

そして無表情のまま手に持っているのは、赤く染まったナイフ。

目眩がした。

シフの足が、いや全身が震える。

「て・・・めぇ、グラディウスに何をした!?」

怒りで、体内の血が沸き上がるのを感じた。

「ルゥ・・・貴様ッ!」

その時だった。シフが飛び掛かろうとした一歩手前。

カッと見上げてこちらを向いたルゥの目が、異様な光を帯びていた。

明らかに尋常な目ではない。

シフが戦いの中で何度も見たことのある、深沈とした殺気にも似ている。

(狂ってやがる・・・)

シフはすぐにそう理解した。

「誰も僕の・・・僕のお願いを聞いてくれないじゃないか・・・だからこうするんだ・・・」

ルゥの口からは不気味な、引きつったような笑いと涎が漏れてきた。

「ふ・・・ふふ」

そしておもむろにポケットに手を入れると、何かを取り出して口に含み始めた。

それが何なのかを知ってしまったシフは愕然とする。

「お前ッ! それはコウジャの実じゃねぇか!!」

 

禁断の果実である。

リオール大陸の中で、この実が採れる木は数えるほどしかない。外見はイチジクに似ていて、やや紫色をしている。

成分は、猛毒。しかも麻薬のような常習性がある。

そして摂取し続けると、少しずつ体内の組織が壊死してゆく。

 

「どうして、お前がそんなものを・・・」

ルゥはまたポケットから実を取り出し、口へ運ぼうとする。

「させるかっ!」

我に返ったシフは、寸前でコウジャの実をひったくった。

ルゥはしばしボンヤリしていたが、もう一度手を入れたポケットに実が残っていないのを知ると、急にその顔つきを歪めた。

「ぐゥ・・・返せぇ・・・僕の・・・」

「アホッ! こんなもん食ってると死んじまうぞ!」

だが、ルゥには声が届かないようだ。シフに抑えられた両腕を振り払い、ナイフをかざして襲ってきた。

「っ!」

鋭利な刃が頬をかすった。

ポタッと血が落下する。ヒヤリとしたのも束の間、ルゥは連続で斬り付けてくる。

シュッ、シュッっと空気を切るナイフ。

シフは紙一重でよけている。まさか子ども相手に剣を抜くわけにもいかない。

だが後ろには倒れたグラディウス。一刻の猶予もない。

隙を突いてルゥの背後に飛び込むと、その細いうなじにありったけの力を込めて手刀を叩き込んだ。

「ぐっ・・・」

小さく悲鳴を上げて、ルゥは気を失った。

 

                   

 

「う・・・ん」

「目ぇ覚めたか。心配させやがって」

森の中。シフが座って自分を見下ろしている。

グラディウスは、傷を受けた腹部にしっかりと布が巻かれているのに気付いた。

「シフさ・・・うっ!」

「バカ、急に起きるんじゃねぇよ! 傷が急所から外れてたから良かったようなものの・・・」

言葉は相変わらず乱暴だが、添える手付きは優しく、その目は焦りに揺れている。

「シフさん、有難うございます」

「別に俺は何も・・・応急処置は軍でよくやってたからな」

少し赤面して、ふいっと顔をそむけてしまった。

ルゥに刺されたグラディウスは数時間ほど意識を取り戻さなかったらしく、夕方近くになっていた。

 

「それで、あの子は?」

「あっち」

シフが指差したのはグラディウスの背後。振り向くと、確かにルゥは居た。

ただし、シフの手によって大きな木にくくり付けられ、気絶している。

「彼はコウジャの実を持っていました。一体なぜ・・・」

「さぁな。リオール大陸にあるコウジャの木は、厳重に管理されてるはずだ。採ろうと思っても、一般人にゃムリだぞ」

多少は闇ルートなどで高額取引の対象になっていたりもするが、子どもの手に流れることは、まずあり得ない。

「コウジャは、幻覚を見せるんです」

「幻覚?」

「ええ。無意識にでも本人が望んでいること、欲しいものなどを『見せて』しまうのです。その強い快感が、

常習という罪を重ねてしまう原因なのです」

シフは、ルゥを見つめる。

「あいつは・・・どんな幻覚を見てるんだろうな」

「ルゥさんがおとなしい内に訊いてみましょう。予備の蝋燭がありましたよね。一本貸して下さい」

グラディウスはゆっくりと立ち上がった。

「まさかあいつを火で炙るなんて言わねぇだろな」

「そんなわけないでしょう。簡単な催眠をかけるだけです」

そう言って蝋燭に火を点けると、木に縛られたルゥの目の前に屈み込む。

 

「じゃあシフさん、少し離れて。決して私が良いと言うまでは声を出さないで下さいね」

「お、おぅ」

グラディウスは蝋燭をルゥの顔前に動かした。

薄暗い中に、ルゥのほっそりした輪郭が浮き出て見える。

「さあ、ルゥさん目を開けて」

グラディウスの優しい呼び掛けに、ルゥは瞼を半分ほど開けた。

「そう、そのまま・・・この火を見て下さいね」

ルゥは半覚醒状態のようで、先程までのような殺気もない。

初めて会った時と同じ、硬く、どこかうつろな表情。

しかし火を映してオレンジ色になっている透明の瞳には、何か悲しげなものが揺れているようにも見えた。

 

「ルゥさん、何も怖がらず、あなたの言葉で聞かせて下さい」

「・・・・・・」

「あなたは、誰と暮らしているのですか?」

「・・・誰とも・・・」

縛られたままのルゥは、ポツリと返事をした。

離れた所から見ているシフは息を飲む。

「父さんと・・・母さんは・・・ずっと前に死んじゃった」

「では、一人で?」

「僕・・・は・・・身体が弱いから・・・友達もいなくて・・・」

壊れた機械のように、途切れ途切れの言葉。

「ずっと寂しくて・・・」

ジジ、と蝋燭が音を立てる。

「でも・・・森で見つけた実を食べたら・・・会えるんだ・・・父さんと・・・母さんに・・・」

「紫色の、小さな実ですか?」

「うん・・・」

「それは、コウジャといいます。あなたはそのコウジャが見せる幻覚に、ずっと囚われているのですね」

「・・・やめなきゃって・・・」

「ええ」

「やめなきゃって・・・思ってても・・・寂しくて・・・」

「でも、このままではあなたの命が危ないのです」

「い・・・のち・・・」

「あなたは、助けて欲しかったのですね?」

「・・・・・・」

そこまでで、ルゥは目を閉じ、がくりと首を垂れた。

 

「もう喋っても構いませんよ」

グラディウスが火を吹き消し、立ち上がった。

「お前ってこんなことも出来るんだな」

シフはようやくといった感じで、大きく息を吐いた。

「この子は、もう生身の人間ではないのですね」

「え?」

「ルゥさんには足音も、咀嚼音もなかったでしょう」

「あ、ああ・・・」

確かにそうだが、触れることも出来たルゥが生身の状態ではないと言われても、シフにはいまいち理解できない。

「正確に言うと、ルゥさんの肉体はとっくに死んでいるということです」

グラディウスの青い瞳はルゥに向けられたまま。

「通常、人間が死ぬと、中の魂は肉体から離れます。肉体とは端的に言うと、魂を収める道具です。

魂が抜けた道具は、すなわち『死体』となります。ただ・・・時に例外があるのです。この世に強い未練や

執着がある場合など、魂が死体から出ようとしないことがあるのです」

「つまりルゥ自身は死んでるのに、魂が今も肉体を使ってコウジャを食べさせているってことか?」

「はい。それほどまでに、コウジャの幻覚に魅せられているのでしょう。しかし、それは今日ここでやめさせなければ」

はっきりとグラディウスはそう言った。

「え・・・」

「死んでなお肉体から離れない魂の存在は、自然の理に反します。無理やりにでも出さねばなりません」

シフは、言いようのないやるせなさを覚えた。

「俺に殺せって言ったのは、解放して欲しかったからなのかな」

「・・・」

 

過去のシフも、同じであった。メルビアの命を盾に取られ、がむしゃらに戦い、その心の奥底では死に場所を探していた。

誰かに殺して欲しくて、しかしメルビアへの未練から自死する勇気もなく、他人の命を奪い続けていた。

あの頃を思い出すと、ひどく泣き出したくなる自分がいる。

「お前さ・・・ああいう気持ちになったこと・・・なくもないって言ってたよな」

ふと、ルゥを追いかけて行く直前のグラディウスの言葉を思い出す。

問われたグラディウスは視線をルゥに向けたまま、ほんの少しだけ表情を硬くした。

「・・・そうですね。少なからずは」

濁した言葉にそれ以上は望めないような気がして、シフは黙る。

 

「可哀想ですが、真の意味で解放してあげましょう」

「・・・ああ」

決意を決めて立ち上がったと同時に、二人は異様な殺気を感じた。それは紛れもなくルゥのものである。

いつの間にか目を剥き出しにして、こちらを睨んでいた。

縛られて身動きの取れない体を必死に動かそうとしている。

「返せ・・・返せぇ・・・ぐゥ・・・」

ギラギラ光るその瞳は、まるで禁断の実をそのまま埋め込んだような紫色になっている。

「僕の・・・僕の・・・殺してやる・・・返せ・・・」

その形相は、完全な狂人であった。

たまりかねたグラディウスは、ぎゅっと一度目を閉じ、ルゥへ近付く。

「ずっと独りで、辛かったでしょう」

そう言い、すっとルゥの額に手を当てる。

途端に、ルゥはおとなしくなった。

「さあ、行きましょう。自由になれるのですよ」

優しく、限りなく優しく声を掛ける。

「ルゥさん・・・」

ルゥは、涙を流していた。

ぽろぽろと、止めどなく流れ落ちる憐れな涙。

ぽろぽろ、ぽろぽろと。

その瞳にも、顔にも、体にも、何の表情も浮かんでいない。

まるで精巧に造られた蝋人形が、涙だけで何かを訴えかけているかのようだ。

何となくだが、シフにも理解できた。もう間もなくこの少年の魂は昇華するということを。

近付いて、そっとルゥの細い髪に触れる。

「ルゥ・・・悪い。俺には、助けてやる力もない。でも、俺もお前と同じだったんだ。だからこそ・・・」

シフの瞳も、また揺れている。

「だからこそ俺は忘れない。命って、何よりも重いもんだってことを」

グラディウスが、額に当てた手に気を集中する。

その時、ルゥの小さな唇が動いた。

「有難う・・・」

それだけだった。

それだけ言うと、ルゥの体は力を失った。

「シフさん」

「・・・おう」

何人の死を、こうして目の前にしただろう。

幼い頃、父母の死を。

戦争で、名も知らぬ兵士たちの死を。

また、自分の率いた部下たちの死を。

そして・・・最も大切な人の死を。

 

「なぁグラディウス・・・俺、情けねぇな。あれだけしか言えなかった。でもやっぱ、命って重いもんだよな」

「その通りですよ、シフさん」

グラディウスは、俯いたシフの肩に手を置く。

ぐいっと涙を拭って、シフがルゥの縄を解こうとした時だった。

森に、突風が吹いた。

「うわッ・・・」

あまりの強さに顔を伏せる。

凄まじいその風はシフのマントを勢いよく翻し、地面に置いたグラディウスの竪琴の弦さえ震わせた。

その目も開けられないほどの風は、数十秒ほど吹いただろうか。

ようやく過ぎ去り、顔を上げた時に二人は言葉を失った。

「な・・・」

立っている場所が、森の中ではなくなっていた。

いや、森が丸ごと消えていた。

辺りは、あの何もない高山地帯。

「な・・・何だよ・・・これ・・・」

ルゥも居ない。生い茂っていた木々も、何も。

二人の荷物だけが遠くにあった。

「私の腹部の傷が無くなって・・・」

グラディウスの声に、思わずシフは自分の頬に手をやる。

(ない!)

ルゥにナイフで斬り付けられた傷が、消えている。

がくりと膝の力が抜ける。

 

「大丈夫かい?」

状況が呑み込めない二人の背後から、聞き覚えのある声がした。ガバッと振り返ると、

あの小さな小屋の老人がぽつんと立っていた。

「あ・・・んた、この間のジーさんじゃねぇか・・・」

「長い幻覚が、ようやく終わったようだな」

「幻覚というと・・・」

困惑の極みといった二人に、老人は微笑む。

「お前さん達は、今までコウジャの幻覚の中におったんだよ」

「何言ってんだ・・・俺たちはコウジャなんか一度も口にしてねぇぞ」

「おや、お前さん達がワシの小屋で飲んだスープの中にも、か?」

「ッ!」

二人とも冷汗が出た。

今まで見ていたものが幻覚だったと言われても、あまりにも記憶が生々し過ぎて受け入れ難い。

しかし現実に、森もルゥも消えている。

「あなたは一体?」

グラディウスが静かに問う。

老人はまた、ふっと笑った。

「ワシは、人間ではない。木霊とでも言ったら良いかの」

「こだま?」

「木の精霊、とでも言えば分りやすいかな。お前さんたちが、ただの冒険者ではない事も、一目見て分かっていたよ」

「え・・・」

「特に金髪のあなた。異能の力をお持ちのようだったからな」

「私の力を見抜いていらっしゃったのですか」

「ああ。だから申し訳なかったが、ワシの命を委ねさせてもらった」

「ど・・・どういうことだ?」

問いかけるシフの瞳を見た老人は、ゆったりと顎を撫でて、そして遠くへ視線をやった。

「古来、コウジャは病や怪我で苦しむ者に食べさせ、安楽死させるために使われておった」

「おい・・・」

「シフさん」

質問の答えが返ってこないことに何か言おうとしたシフを制し、グラディウスが続きを促す。

「だが、その禁断の実を健常な者までが食べ始めた。最初はただの好奇心だったが、その強い幻覚に狂い、

自らの命が果てるまで食べ続けて死んでいった。またある者はコウジャの実でひと儲けしようと高値で

闇取引を始め・・・本当にひどい有様だよ。ワシはもう耐えられないんだ。自分の存在のせいで天に

召されてゆく者、人の道から外れる者を見るのが」

「え・・・」

「自分の存在・・・? じゃあ貴方は!?」

「ああ、コウジャの木の精だよ」

そう言って、老人は二人の顔に視線を戻した。

凛々しく、少し生意気そうな顔と、中世的だが芯の強そうな顔とを見比べる。

 

「ワシは、自分を解放してくれる者を待っていたんだ。自己を枯らすことは、木霊であるワシには出来んからな」

シフの尖った耳が、ぴくっと動いた。

老人の身体が少しずつ薄くなり、背景が透けてゆくのに気付いたからだ。

「おい、ジーさんっ!」

「幻覚を見せるという形でしか、ワシの話を信じてもらうのも、解放してもらうのも無理だと思ってな。

本当にすまんかった」

皺に埋もれそうな瞳が細められる。

「お前さんたちが見た幻覚は、お前さんたち自身が心に抱えている傷が、少年に形を変えて現れたものだ。

二人とも、大きな傷を持っておったんじゃな。だが、その傷を抱えた上で強くあろうとしていることも、よく分かったよ」

「・・・・・・」

「シフさんとやら、お前さんの言った言葉はワシにとっても嬉しいものだった。命は、重い。誰もがそれを知っていて、

だが忘れているんだ」

更に、老人の体が透けた。

「グラディウスさんと言ったね。辛いことをさせて、すまんかった。しかしお前さんの力のお陰で、やっと解放される。

その力のことで悩むこともあるようだが、力は使う者がその善し悪しを決めるのだよ」

「お爺さん・・・」

「そろそろ時間のようだ。どうぞワシの最期を見ていておくれ。ワシが死ぬ事で、世界中のコウジャの木も死ぬ。

ずっと・・・この日を待っていた」

「ちょっと待ってくれ! まだ色々と聞きたいことがッ」

「ああ、そうだ。お前さんたちが探していると言った洞窟は、ここから真っすぐ北に進んだ所にある。中に何が

待っているのかは、ワシも知らぬがな」

「ジーさん!」

「では、な」

「・・・ッ!?」

シフは思わず手を伸ばしたが、老人の薄くなった体には触れる事は叶わず、空を切って終わった。

 

スッと、老人は煙が消えるように・・・文字通り『消滅』してしまった。

夕焼け空の赤色に溶け込むように。

大地の土色に溶け込むように。

そして代わりに、彼らの目の前には一本の枯れた木が現れた。水分を失い、焦げた色をした幹は、今にも

折れそうな枝を弱々しく伸ばしている。

もう、完全に生命活動を終えた木である。

「これが、お爺さんの本当の姿だったんですね」

「もうこれで・・・コウジャの木が禁断の実をつけることは無いんだな」

「その実に、命を落とす人も居なくなります」

二人はその木から離れるのが名残惜しくて、しばらく佇んでいた。しかし、シフが幹にそっと触れて顔を上げる。

「・・・行こうぜ。洞窟は近いぞ」

「ええ」

 

見ていた幻覚は、己の心に抱える傷だと、老人は言っていた。

ルゥは・・・ルゥという名の、自分の分身のようなものだったのだろうか。

二人は、木を背にして歩き出す。

 

『過去を乗り越える力があれば、何事にも負けはしないよ』

 

「えっ!?」

突如聞こえた声に、振り返る。

しかし、広く乾いた地にぽつんと立つ、枯れた木があるだけだ。

「ああ、ありがとな」

「その言葉、忘れません」

静かに見送ってくれる木に言うと、二人は頷き合って再び足を進める。

「おっしゃ、行くぞ」

 

妖魔の洞窟まで、あと少し。



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