<続・託される拳>

 

「戦争を舐めるんじゃないッ!」

その怒号が響き渡ると同時に、彼の身体はしたたかに地面に叩き付けられていた。殴られたのだと理解するまでには、

多少の時間がかかった。歯茎が切れたのか、ぬるい血の味が口内に充満する。

「ってぇ・・・!」

目の前に仁王立ちした男を見上げたのは、まだ若い・・・恐らく二十歳も迎えていないであろう青年兵だった。

「味方にも敵にも、背負うものと守りたいものがある。真剣に戦えないのなら、さっさと国に帰れ! 

戦場にガキは要らんッ!!」

彼にとって、浴びせられたこの言葉は大変な屈辱だった。

自分の力に過ぎた自信を持ち、敵を仕留め、どれだけその首を獲ったかが評価の基準だと思っていた当時の彼に、

真っ向から激怒した人物こそ・・・『英雄』の異名を持つエントルス軍の第一部隊を率いた男であった。

普段は穏やかな隊長の、まるで虎のような怒りに触れ、彼は地面に膝を着いたまま唖然とその顔を

見つめる事しか出来なかった。

 

その青年兵は、ゼルガという。

世界の終わりとも言われた第一次大陸戦争。リオール全土を巻き込み、四年にも渡る争いが続いたこの時代。

ゼルガは肉弾戦に秀で、ちょうど戦うにはうってつけの年齢であったが故に、強制的にエントルス軍に徴兵されていた。

国を守るため・・・そう言われても、まだ若く、いきなり戦争に参加させられた彼には愛国心など湧きようもない。

自然、命令違反などの問題行動も増えていた。

ゼルガの倍ほどの年月を生き、戦い慣れた隊長は、たった一人のそういう行いが軍隊そのものを揺るがしかねない

ことを知っていた。しかしこの人物は、それでも軍のためではなく、相手の人間としての誇りのために厳しく

叱り飛ばす・・・そんな男であった。

 

この一件があってからというもの、しばらくは隊長と目を合わせることもなく戦い続けたゼルガ。

しかし自分の倒した敵の真剣さ、鬼気迫る表情、そして戦士としての死に様を見るにつれ、今まで感じたことの

なかった気持ちが生まれ始めた。

(背負うものと、守りたいもの・・・か)

隊長の言葉が何度も思い出された。

もちろん、血生臭い戦場で、綺麗事は言ってはいられない。

殺すか、殺されるか。

常に、見渡す所に死体の山があった。そんな光景の中、敵国の兵士に対しても敬意を忘れない隊長は、

その日の戦いの終わりには必ず亡骸に向かって静かに頭を下げるのだった。

そんな隊長の元で働くうちに、彼はゼルガにとっていつしか憧れの対象になっていた。

 

            ☆

 

エントルス領土最北端の防衛線に勝利した、ある日の夜。

軍全体で久しぶりにキャンプでの祝杯をあげた。酒が出ているのも隊長の計らいである。

常に死と隣り合わせで張り詰めているのだから、時にはこんな時間も必要だと言いつつ、自分は少し離れた見張り台の上で

遙か砂漠の果てに目を凝らしているのもまた、彼らしい。

そこへ、地上からハシゴを登って来る人影が一つ。

「お、ゼルガか」

「ったく、部下が宴会で隊長が見張りなんざ、おかしいだろ」

「ははは。うるさいのが居ない方が、皆遠慮なく騒げるのさ」

そう言いながら、隊長はゼルガを隣に座らせた。

砂漠に吹く乾いた風が、少し肌寒くもあった。

月の見下ろす夜に、兵士たちの陽気な歌声が響いている。

 

「・・・なぁ、隊長の守りたいものって何だ」

殴られた日から、ずっと訊いてみたかったこと。思えば、こうしてゆっくり話をするのも初めてである。

軍に所属する全員が、初対面の挨拶もそこそこに戦線に出て行ったような状況であったからだ。

「なあに・・・お前にとっては下らないことかもしれないが、家族だよ」

「・・・・・・」

「俺には、年取った父と母・・・そして妻と息子、もうすぐ産まれる赤ん坊がいるんだ」

笑顔を浮かべて語る隊長の表情とは対照的に、ゼルガの顔は曇る。もう会う事は出来ないかもしれないという覚悟が、

言葉の端に感じられたからだ。

「自分が弱ければ、戦争に負ける。負けたらきっと、故郷で待つ家族にも被害が及ぶ。だから戦うんだ。

奪うためじゃなく、自分の大切なものを守るためだ」

ゼルガは、何も言葉を返せなかった。家族すらいない自分には守るものがない。それこそが自分の強みだと

思っていたことが、とても恥ずかしくなった。守るものを持つ隊長の方が、だからこそ自分の何倍も強いのだ。

「だが、それは敵の兵たちにとっても同じことだ。故郷には、彼らの無事を祈って帰りを待つ家族がいる。

だから真剣に挑んで来るんだ」

「ああ・・・隊長から教えられた」

「いつかお前も、守るものができたら分かるさ」

大柄な隊長が、笑ってゼルガの背中をばんっと叩く。

そんな数分の会話が、のちのゼルガには思い出すのも辛い記憶となる。

 

            ☆

 

数日後、形勢を逆転されたエントルス軍は大勢が捕虜として捕らえられた。

相手は、当時より最高の武力を誇った残虐なラウォ軍である。捕虜の中には隊長やゼルガの姿もあった。

このままでは全員が殺されるのも時間の問題である。

手枷を着けられ両手の自由を奪われた隊長は、それでも冷静に見張りが手薄になる隙を突いて部下を逃がす計画を立てていた。

「オレも、一緒に戦うからな」

同じように後ろ手に拘束されたゼルガが囁くが、しかし隊長は何も返事をしなかった。

 

その瞬間は、来た。

突如、隊長が近くのラウォ兵の顎を蹴り上げる。一瞬で骨を砕かれた兵士は即死。すぐさま気付いて向かってきた

他の兵士も、足技だけの隊長に次々と薙ぎ倒される。

その間に、手筈通りにゼルガたちは拘束具の鍵を奪い、互いの手枷を外す。

「よし、あとは隊長の手枷だけ・・・」

ゼルガが振り返った瞬間、向こうからおびただしい数の黒い影が迫って来るのが見えた。

「まずい! 援軍がッ・・・相当な数だ!」

あの人数が相手では、武器も全て奪われた自分たちではひとたまりもない。

「隊長ぉおおッ!」

すぐに駆け出そうとするゼルガ。しかし・・・

「来るんじゃねぇ!」

隊長の怒号は、彼の足を止めるのには十分過ぎる迫力だった。

「!?」

「俺がここで時間を稼ぐ。まだ若いお前には未来がある。仲間と、最後まで逃げ切ってくれ」

隊長のぎらぎらした瞳が、真剣に訴えているのを物語る。

「でも・・・でも隊長っ!」

「ゼルガ、頼む」

そこで、隊長はニッと笑った。

「みんなを守ってくれ」

ゼルガは唇を噛み締め、踵を返した。仲間たちを走らせ、自分もまた走った。

『頼む』

隊長からの、最初で最後の願いだった。

ゼルガの瞳から、涙が後から後から流れる。

振り返らなかった。振り返れなかった。

そして、仁王立ちした隊長の元に漆黒の鎧の波が襲い掛かるまで、そう時間はかからなかった。

途中で出くわす他国の敵兵たちと素手での死闘を繰り返し、命からがら逃げ延びたのはたったの数人。

その中にはゼルガも居た。エントルスの第一部隊は、事実上の壊滅であった。

 

ゼルガは、隊長の遺体を探して家族の元へ運んだ。

特定も難しいほどに切り刻まれた亡骸。白布に包まれた父親を見て、まだ年若い、隊長によく似た息子は

大声をあげて泣いた。

泣いたというよりは、もはや絶叫だった。その痛々しい悲鳴がゼルガの胸を締め付ける。

お腹の大きな妻は気丈に礼を言ったが、ショックも手伝って急に産気付き、赤ん坊の産声が上がると同時に息を引き取った。

父と母を同時に失い、放心する隊長の息子と、赤ん坊の無垢な泣き声を背に、ゼルガはそっと家を後にする。

 

(守れなかった・・・)

それなのに、自分はどうして生きているのか。

孤独と後悔が心を占める。亡骸を見た隊長の息子の悲鳴が、寝ても覚めても頭に響いた。

(何で、一緒に連れて行ってくれなかった・・・)

握った拳に食い込む爪。そこから緋色の血が滲む。

(・・・痛ぇ)

痛みがある自分。

引きずって来た冷たい肉の塊は、もう痛みなど感じることも出来ないのに。

「ちく・・・しょぉ・・・」

林の中で、木に頭を強打し続けた。

額が切れて骨にヒビが入っても、なおも頭をぶつけ続けた。

「ちくしょおおおおおおおぉぉぉぉッッ!!」

まるで、狼の哀しい咆哮だった。

 

そのまま行方をくらまし、幻覚に苛まれて眠れない夜を数え切れないほどやり過ごした。酒に溺れ、

喧嘩に明け暮れ、彼の消息は誰にも知られる事なく長い年月が流れる。

そして、世捨て人と化したゼルガを立ち直らせたのは、他でもない・・・隊長の息子の拳であった。

父親譲りの拳でしたたかに殴られた瞬間、火花のように彼の身体を駆け巡ったもの。

隊長が何を自分に託したのか、そして自分は何をすべきか。

彼の息子の本気の一発が、それを教えてくれた。

これこそ、『拳王』ゼルガの再起のきっかけである。



     ←前へ 次へ→