<忘却のふるさと>
私の、失われた記憶を知る人。
そう確信したのはいつだったか覚えていないけれど・・・
記憶をなくした私の傍に、いつの間にか彼がいた。
「・・・ねぇ」
「何ですか?」
「・・・・・・何でもないわ」
床に座り、だらしなくソファに上半身を預けたまま、女はけだるい表情で髪をかき上げた。
シルクのような黒髪が、さらさらと肩に流れる。
外は、雨。
彼女の視線の先には、本を読む男。
金色の髪と青い瞳を持つ、本当に美しい男。
空から絶え間なく降る雨音が、やけに大きく響いている。
「貴女はいつもそうですね。聞きたいことを躊躇して、結局は飲み込んでしまう」
「好きでそうしているんじゃないわ」
ツンと言い放つ女に、彼は苦笑する。
「機嫌を直して下さい、マリーレイア」
・・・マリーレイア。それが彼女の名前だという。
もっとも、本人はそれが本当に自分の名前なのかを知らない。
目が覚め、何も分からない自分に、彼がそう呼びかけた。
その日も、今日のように雨が降っていた。目覚めた場所が、この家。他でもない、自分の家だと教えられた。
彼は時々、こうしてこの家に訪れる。
朽ちた暖炉に、傷だらけのドア。古いが、ぬくもりのある部屋には沢山の本が納められている。
彼は訪れるたびに何冊か読んで行くのが習慣になっていた。
「あなたは、何なの。普段はどこに住んでいて、どうして私のことを知っているの?」
「今度は質問攻めですか。私の事は、教えたでしょう?」
「何も知らないわよ。名前がグラディウスっていうことしか」
「それだけしか、教えることがないんですよ。定住する家もない、放浪者ですから」
「・・・・・・」
時々、ひどく頭痛がする。特に、こんな雨の日には。
何かを、思い出しそうな痛み。
脳裏に、血の映像が焼き付く。自分の失った記憶が、呼び戻されそうになるのが分かる。
封じられた自分の過去を知りたい思いと、知るのが怖い思いが、ない交ぜになって彼女を苦しめる。
そんな時、なぜか不思議と彼が家を訪れ、彼女の額に手を当てる。すると痛みは消え、先程までの激しい葛藤も
嘘のように無くなってしまうのだった。
彼は、それを彼女の『病気』だと言った。
本当に病気であるのなら経緯や真相を訊きたいとは思うが、尋ねて正直に答えてくれるようなタイプの男ではないことも
分かっている。もどかしい思いを抱く彼女へ、金の髪の彼は必ず言う。
「貴女の病気が完全に治るまで、辛い時は必ず助けに来ます」
と。そして、頭痛の起こる間隔が少しずつ開いているのも事実であった。いっそのこと完全に『病気』が治ってしまえば、
苦しい思いをしないで済むのかもしれない。
いつの間にか雨がやんでいた。
グラディウスは窓に目を向けると、読みかけの本に栞を挟んで立ち上がった。
「さて・・・そろそろ行きます」
いつものように、どこへ行くのか、次はいつ来るのか、そういった言葉はない。
「行ってらっしゃい・・・と言えばいいのかしら?」
マリーレイアがぽつりと呟く。既に扉の前にいた彼は、つと振り返る。
「必ずまた来ますよ。本の場所は動かさないで下さいね」
そう言い、ふわりと笑う。
「・・・さて、どうかしらね」
そっけない返事をよこす彼女も、ほんの少し笑った。
国家マイヤの中の、人里離れた小さな村。
グラディスとマリーレイア。
片方の記憶は閉ざされてしまったが、この世にたった二人残った魔導士である。
グラディウスの恩師であり、またマリーレイアの祖母でもある亡きアルマの家で、二人は時折の交流を続けるのであった。
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